雑記【 VII 】 [日記・雑感]
人間には五体がある。この五体がすることといえば、まずは身体の動き、それから言葉、そして精神の働きとしての心
→仏教では、この三つを身(しん)・口(く)・意(い)の「三業(さんごう)」という
業というのは働きということ
この働きいかんで罪をもつくる
放っておくとエゴイズムの奴隷になる三業になる
身業
他をかえりみず自己の欲望充足のために動く
口業
他人をだまし自分をもだまず
意業
人を嫌い憎む
空海曰く、
「法仏の三密は甚深微細にして等覚十地を見聞することあたわず、すえに密という。衆生の三密もまた、かくのごとし」
→仏の身・口・意は非常に微妙で奥が深い。だから密という。同じく我々の三業も仏の三密と同じなのだ
基本として、我々の三業は仏の三密と同質である。
だが、このままでは三業は三密とはなりえない。
「もし真言行者あって、この義を観察して手に印契をなし口に真言を誦し、心三摩地に住すれば、三密相応にして加持するがゆえに速く大悉地を得」
すなわち手に印契を結び、口に真言をとなえ心に本尊を念じる。
こうして三業は三密に転化する。
印にはいろんな形があり、この印が意味するものは仏の働きである。手で仏の働きを表して身密とする。同時に真言をとなえる。
仏の言葉である古代インド語。口業が口密になる。
そして心で仏の姿を思い描く。あるいはマンダラを見て心を仏で満たす。
こうして意業が意密になる。
例えば・・・
金剛界マンダラの大日如来を見て印を結ぶときは、大日如来の印である智拳印をつくり、口では大日如来の真言(オン・バザラダトバン)をとなえる
我々は、この煩悩多き身でありながら即座に仏になることができる。
これを「入我我入(にゅうががにゅう)」という。
仏が自分の中に入り、自分が仏の中に入るということ。
これが生きたまま仏になること。
→即身成仏(そくしんじょうぶつ)
仏の力が我々に加わり、仏の力を我々が持つことができるから「三密加持」という。
これだけで、仏が自分の中に入ってきて仏の力を実感できる。
ただ人によって、ゆっくりそのお実感を得る人もいるし、すぐさま実感する人もいる。
どんな人にも共通するのは、成仏疑いなしということ。
→簡単だが仏の太陽を大切に保つ容易がなければならない
空海曰く、
「仏の太陽が我々の心の池に姿を映すのを『加』といい、我々が心の池に移った太陽を大切に保っていくのを『持』という」
さらに三密加持によって宇宙の大生命と一体になれば、一般に不思議と呼ばれる現象も出てくることがある。
これを「三力加持」という。
加被力(かひりき)
仏から願う力で人間の内にある仏性という宇宙エネルギーを解放させようとするもの
功徳力(くどくりき)
我々が救われたいと自分の仏性を解放したいと祈る力
法界力(ほうかいりき)
宇宙に遍満するエネルギー
これらの三つの力が合致するとエネルギーが束になってほとばしって、あらゆる困難を打開する状態になる。
昔の人は、これをよく知っていた。そして現代でも信者は現世利益を願って具体的な要望を僧侶に述べて加持祈祷してもらう。
しかし、本当の現世利益とは、自分が仏となって仏のまま行い生きていくこと。
それ仏法は、はるかにあらず。
心中にして、すなわち近し。
真如ほかにあらず。身を棄てて、いずくんか求めん。
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