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文藝春秋2011年5月号で忘れたくない内容 [精神世界(宗教・哲学・思想etc)]

こなさん、みんばんは。
今日(05/02)、ONE PIECE62巻を買って読みました。週刊少年ジャンプの連載で1回、単行本で2回、TVアニメで3回ONE PIECEを楽しんでいる しゃくれアゴです。

ワンピース最高っ!! どーーん!!!

ONE PIECE 62 (ジャンプコミックス)

ONE PIECE 62 (ジャンプコミックス)

  • 作者: 尾田 栄一郎
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2011/05/02
  • メディア: コミック

相変わらず、so-netでAmazon商品の詳細リンクを張ると変になるなぁ・・・。(^-^;

 

あ、そうそう。
ブログ記事のタイトルにも書いたとおり、先日読んだ文藝春秋2011年05月号でここは忘れたくないな、というか、ちゃんと頭に刻んでおきたいな、と思った部分を抜粋して記載しておきます。

 

 

 

メモ書きみたいなものなので、あまり宗教に興味がない人は読み飛ばしてくださいね。

イエス・「キリスト」
     ~~~~~ → ギリシャ語=「救い主」、ヘブライ語=「メシヤ」
→もともとは、『油を注がれたもの』=『王』という意味の普通名詞

 イエス・キリスト=「イエスは私の救い主」

 イエス=ヨシュア(ヘブライ語の発音) → モーセの後継者。ギリシャ語で発音すると「イエス」になる。ヘブライ語では「ヤハウェ(神)は救い」という意味

イエスはガリラヤ(イスラエル北東部)のナザレという街の出身。イエスという名前はどこにでもいる一般的な名前=「ナザレのイエス」

 

クリスマスを祝うようになったのは、キリスト教がローマ帝国の国教になった4世紀以降。
カトリック教会が、ルカとマタイ福音書にうまく辻褄を合わせて12月25日に決めたと言われている。

イエスの母:マリアの解任が春分の頃、その十ヶ月後の冬至の頃が イエスの誕生日という計算

ギリシャ、シリア、ロシアなど東方正教会では1月6日がクリスマスの祝祭。
ただし、イエスの誕生日ではなく、イエスがヨルダン川でヨハネから洗礼を受け、イエスに精霊が宿った日だとされている。

 

イエスはユダヤ教徒。
当時、ローマ帝国の植民地として重税に苦しんでいたパレスチナの状況が背景にある
農民は農地を奪われ小作人、小作人からホームレスに転落
病気、飢餓が蔓延

悪霊に取り憑かれた者、盲人や口がきけない人、レプラという重い皮膚病の人
~~~~~~~~~~~~ → 今で言う精神科的疾病を抱えて苦しんでいる病人を指していた?
(当時のユダヤ社会では神の呪いの病気としてひどい差別の目で見られていた)
「いまの病気や状況は、あなたのせいじゃない」という言葉だけでも救われただろう
 → イエスは優れた精神科医だったかもしれない

民衆の支持を集めるようになったイエスは、ユダヤ人の権力者達から告発され、パレスチナを属領としていたローマ帝国の総督ピトラによって処刑される
 → イエスの「神の国運動」は、自分たちの権威を揺るがす驚異と映ったから

イエスが十字架にかけられたのは紀元30年代
→ユダヤ社会の内部にローマ帝国への憤が火をふき始め抑えがたいまでに高まっていた
→ユダヤ社会の権力者にとって危険な兆候
(イエスをローマ総督に突き出したのは、それを隠すための巧妙な政治的取引?)

 

「旧約聖書」を抜きにして、イエスがキリスト(救い主)であることを証明できない。
ユダヤ教には、いずれ この世は終わりが来るという終末思想がある
→終わりの日にはメシヤ(救い主)がやってくるという信仰

予言者イザヤ
「彼は人々に軽蔑され、見捨てられ、痛みを背負い、病を知っている。彼が刺し貫かれたのは、私たちの背きのためであり、私たちの咎のためである。彼の受けた傷によって、私たちは癒された・・・・・・」(イザヤ書 53章 推定年代:紀元前540年ごろ)

イエスの弟子たちは、イエスの十字架の後に はじめて「イザヤの預言したメシヤこそ、ナザレのイエスではなかったのか?」という理解に辿り着いた

しかし、こともあろうに、ユダヤ教徒が自分たちの手でイエスを十字架に追い詰めて殺してしまった
→最初に読み解いたのは使徒パウロ
→十字架の出来事の奥に秘められた真実を神との新しい契約という一点にしぼってとらえることに成功した最初の人


『最後の晩餐』
→新年を祝うユダヤ教の過越祭の前夜祭の食事
→ユダヤ教徒の仔羊を神への生け贄として殺し、食事の席で共食する習慣

羊を犠牲とすることで、神の前に旧年のすべての罪禍をあがない、新年を迎える
イエスは仔羊の代わりに自分自身を神への生け贄に見立ててパンをちぎって「これは私の肉である」 葡萄酒の杯をまわして「これは私の血である」
→パウロが過越祭の仔羊の供儀をイエスの十字架に見立てることによって、巧に読み替えた

ユダヤ教で仔羊を生け贄にして罪が許され新しい年が始まるのと同じように、イエスが犠牲となったことによってすべての人の罪が許され新しい世界の歴史が始まった、とした

 

 

 

---
以上

 

いやぁ~、ためになりましたねぇ。
さすが池上彰さんが、各宗教家と対談した内容だけあって、わかりやすかったですね。
「日本人は無宗教と言われるけど、実はそうじゃなくて日常的行動や心理、思考に神道や仏教がすり込まれており、『あなたは何教ですか?』と聞かれると、とくに全知全能の神を信じているワケでもないため、『特に・・・』となる」とか。
たしかに、親や祖父母の教育や学校での道徳の授業や教育などで、儒教やら神道やら仏教やらの根本というか、そういったものがすり込まれている気はしますね。
「誰も見ていないと思っても、誰かが見ている」とか。
「お天道様はイイ人・悪い人わけへだてなく照らしてくれる」とか。
「自分の言動は巡り巡って自分に返ってくる」とか。

自分に子どもができればお宮参りをして、七五三をして、成人式をして、結婚式は神前だったり教会だったり人前だったりして、葬式は仏教だったり教会だったりして。

不信心だろうが、どこかの特定の神様への信心がなかろうが、誰でも死ねば成仏(って仏教用語だけど・・・)して無事にあの世へ行けるし。
いまのキリスト教圏vs.イスラム教圏vs.ユダヤ教圏などの対立とか宗教がらみのテロとか見ていると、ほんと日本人でよかったというか、神道というベース(または儒教+神道+仏教)が思考の根底にあるから、どこの国のどんな神様だろうが受け入れられるというか。

宗教は知れば知るほど奥が深いですねぇ。

 

 


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