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我が家の家紋 [日記・雑感]

私の実家の家紋は「丸に剣花菱」という家紋で、ルーツは・・・
甲斐の武田家だの、犬公方こと徳川吉綱に仕えた柳沢吉保だの。
家紋のルーツを調べた結果を以下にまとめます。

源頼朝のもとに帰順した東国武士たちのうち河越重頼は「花菱」を用いている。俗に言う「武田菱」の四つの角を花弁のように変形させたもの。

源頼朝につづいて義仲までが挙兵したと知った平家は、越後の豪族・城助茂に鎮圧を命じた。この城氏は平家の流れを汲む。平維茂の子・繁茂が秋田城介となり、子孫が城氏を称し、越後を本拠として大いに栄えた。
家紋は「剣花菱」

清和源氏の嫡流・八幡太郎義家の弟の三男の次男・信義が武河庄武田(韮崎市)にすんで武田氏の始祖となった。家紋は「武田菱」
信義の弟・加賀美遠光の子・長清は甲斐国中巨摩郡小笠原に住んで小笠原氏を称し、子孫が信濃守護となり深志城(松本市)を本拠とした。
長清の弟・光行は中巨摩郡南部に住んで南部氏を名乗った。光行は源頼朝の奥州攻めの際の戦功で陸奥国北部を与えられた。26代信直は秀吉、家康に臣従し、江戸時代には盛岡十万石の藩主として明治に至った。家紋は「花菱」である。

蝦夷地(北海道)で唯一の大名だった松前氏も遠祖はやはり武田氏で、家紋は「花菱」だった。松前氏の本姓は蠣崎(かきざき)である。元禄元年(1457年)にアイヌの首長コシャマインが大反乱を起こして、蝦夷地南部の和人の砦を次々に陥れていった。このとき蠣崎季繁の花沢砦に客将となっていた武田信広がコシャマインを射殺して勝利を得た。そして季繁の娘をめとって蠣崎氏を称したという。
武田信広の前身は甲斐の武田氏につながる。武田氏の始祖・信義の十一世・信繁のとき若狭守護となったが、その孫・信広が蝦夷地に渡ったというのである。
そして蠣崎氏五代の慶広のとき、豊臣秀吉に臣従して蝦夷地の本領を安堵され、徳川家康が天下を取ると、松前氏と改め、松前藩を成立させたのである。家紋は遠祖の武田氏ゆかりの「割り菱」と、それをアレンジした「花菱」である。

肥後を支配していた龍造寺氏は、藤原秀邦の末裔で、佐藤季清が久寿元年(1154年)に肥前に下向し、佐嘉郡龍造寺村に住みついて龍造寺氏を名乗った。家紋は花弁が剣の形をした「剣花菱」である。

五島家・・・
嵯峨源氏の肥前松浦党から出たとも、清和源氏の末裔ともいう。はじめ宇久(うく)氏を称していたが、肥前五島列島を制覇して五島氏を名乗った。家紋は「丸に花菱」で、清和源氏の武田氏にも通じるもの。

 

・・・う~ん。
家紋だけを見ると武田氏に通じる。でも名字が全然違うよ。
私の名字はけっこう変わっていて、先祖は神主だったとか・・・。だから、お宮に関わる名字だったりするんですよね。
武田の誰かが、神社の近所に引っ越したりして、お宮に関する名字を名乗ったとか?

「我が家の本家は四国にある」と父は言っていたけど・・・どこ?
父の実家は北海道釧路市なんですけどね。ず~っとたどっていくと、四国にいきつくのかな?
私の名字のルーツは、どうやら2パターンあるんですよね。信濃とかその辺、もしくは四国。信濃ときたら、武田氏だよねー。家紋も武田氏に通じるものがあるし・・・。でも父は「本家は四国だ」と言っているしなぁ・・・。
自分の名字や家紋のルーツって、知りたくなるんですよねー。別に家系図を作ったりして、家柄を自慢したりしたいワケじゃないんですけどね。

ま、いいか。
とりあえず、今現在の私がこの世に何を残すか、だな。
何を残そう?
家宝とか何もないし・・・。飯島愛のお宝AVビデオテープとか?(^-^;;


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